グレイシーによって多くの人に知られることとなった木村政彦
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか | ||||
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木村政彦のことは知らなくとも、「グレイシー柔術」の名前を聞いたことがある人は多いかもしれない。
1993年にアメリカで開催された格闘技大会「UFC」で、その名は一躍有名になった。UFCは、目つぶしや噛み付き以外は何をやっても良いという過激なルール。体格に利して、打撃に強いものが圧倒的有利と思われたその大会で優勝したのは、ホイス・グレイシーというブラジル人だった。
ホイスの体格は、ウィキペディアによれば180センチ、80キロで、線も細い。そんなホイスが、決勝で戦ったのは、極真空手出身のジェラルド・ゴルドー。190センチを超える長身で、「喧嘩屋」の異名を持つ格闘家だ。
柔道着に身を包んだホイスは、ゴルドーに何もさせないまま、あっという間に裸締めでしとめてみせた。
このとき初めて「グレイシー柔術」を知った人は多かったはずだ。当時学生だった私もその一人だった。当時はインターネットも一般には普及しておらず、メディアを通じて情報が出てくるのを待つよりなかった。
そして、徐々に格闘技雑誌やテレビなどを通じて、グレイシー柔術の実体が明らかになっていった。
木村政彦を取り巻く伝説の格闘家達
柔道家 木村政彦のことは、少しだけ聞いたことがあった。しかし、知っていたのは、現役時代には、木村にかなうものはいなかったらしいということぐらい。
グレイシー柔術のことが世間に知られるようになっていった後、最初に知ったのは、前田光世(コンデ・コマ)という柔道家のことだった。南米に渡り、柔道を広め、それが南米での柔道の発展につながり、グレイシー柔術もそんな土壌から生まれてきたと。
私自身は、中学生のときに読んだ空手バカ一代という漫画がきっかけで、大学に入ってから、極真空手を始めていた。高校のときには近所に極真空手の道場は無く、大学に入ったら始めたいと思っていた。
強くなりたいという思いで空手を始めたこともあり、その他の格闘技にも興味があった。学生の頃は、よく格闘技雑誌を読んでいた。
ただ、格闘技マニアではないので、徹底的に情報を調べたり、色々な書籍を読みあさったりということはしていない。好きだから、色々な情報に触れ、知っていたという程度だ。
しかし、本書を読んで驚いた。合気道の塩田剛三、空手の大山倍達、プロレスのジャイアント馬場、柔道家の前田光世、そして、グレイシー柔術まで、格闘技漫画「グラップラー刃牙(バキ)」でモデルになった伝説的な格闘家達が、多数、登場する。しかも、ノンフィクション、事実なのだ。
木村政彦の壮絶な修行時代
力道山との運命の一線に至るまでの軌跡として、本書では、木村政彦の修行時代について詳しく書かれている。その内容が凄まじい。当時、強豪選手たちが三時間稽古していたのに対して、木村は倍の六時間以上では足りないと考えて、「三倍の努力」を実行し、毎日九時間を超える稽古を自らに課したという。
その内容は次の通りだ。
- 朝十時から警視庁で稽古
- 昼食を食べて大学で三時間の稽古
- 夕方六時からは講道館、その後は深川の道場で稽古
- 夕食を取ると(この時点で夜十一時)ウサギ跳びで風呂に行き、またウサギ跳びで帰る
- すぐに腕立て伏せを千回やって、バーベルを使ったウエイトトレーニング
- 巻藁突きを左右千回ずつ
- 立木への数千本の打ち込み
- 二時過ぎに布団に入ると体をつねって寝ないようにしてイメージトレーニング(寝るのは四時)
「九時間」は、柔道場での練習にかかる時間である。ウエイトトレーニングなどを含めると、食事とわずかな睡眠時間以外は、ほぼトレーニングに費やしている。これを毎日行ったのだ。
木に向かって体をぶつけて打ち込みを行ったため、最初は皮膚がめくれて血だらけになったという。その痛みに耐えて続けた結果、ついに木にあたっていた部分の皮膚が硬くなり、最後には木が枯れてしまったそうだ。
トレーニングに「巻藁突き」があるのを見て、違和感を覚える人もいると思う。これは空手家が拳を鍛えるために行うものだからだ。
いまは、「柔道=講道館」だが、戦前は数多くの柔術の流派があり、ルールも今の柔道とは違ったという。木村はより実戦的に通用する「武術」としての柔道を求めており、相手が柔道家以外であっても、勝つことを考えていたそうだ。ゆえに空手のトレーニングも取り入れていたのだ。
これだけのトレーニングをやれと言われて出来るものでは無い。ほとんどの人は体が壊れてしまうだろう。これを強靭な精神力と頑強な肉体をもってこなした結果、木村は十数年間負けなしという圧倒的な強さを身につけたのだ。
全盛期の木村は超越的に強く、もはや比肩するものはいなくなり、木村を相手に何秒立っていられるかが試合の関心事になっていたという。
試合にかける意気込みも尋常ではなかった。負けたら死ぬと本気で考え、腹に短刀の切っ先を突き立て、切腹の練習までしていたのだ。
その鬼の木村が、戦後、プロレスのリング上で、力道山に失神KOという屈辱的な敗北を喫するのである。その映像は、YouTubeでも見ることができる。
苦しかった戦後の生活、難病の妻
戦前、圧倒的な強さで全日本大会で優勝、師である牛島辰熊の悲願であった天覧試合での勝利。戦前の天皇は、「現人神」であり、そこで勝つことの栄誉は何事にも代えられないものであったに違いない。
苦行を経て、圧倒的な強さを身につけ、今から木村の黄金時代が始まるという、まさにそのとき、戦争が激しさを増し、全国民が戦争に動員されていくことになる。そして、敗戦。
武術はGHQによって危険視され、弾圧されていく。柔道が強くても、飯は食えない時代になっていた。
その後、色々な経緯があり、木村は海を渡る。そして、ショーとしてのプロレスによって、大金が稼げることを知った。稼いだお金で、難病だった妻の病気に効くとされる、高価な薬を大量購入し、病床の妻に送った結果、妻は回復することとなった。
このときに木村は、真剣勝負ではない「プロレス」を知ってしまったのだ。
そして伝説のエリオ・グレイシーとの真剣勝負
その後、木村はブラジルであのグレイシー柔術の創始者、エリオ・グレイシーと真剣勝負を行うことになる。娯楽の少ない当時、格闘技は人気があり、エリオはブラジルの国民的英雄だった。試合は10分3ラウンド。本人が参ったをするか、絞め落とすまで行うという完全決着ルールである。その試合の模様もYouTubeで見ることができる。(映像は、2ラウンドのものらしい)
これが如何に意義深いことなのかは、本書に詳しいのだが、少しだけ引用すると、この試合が行われたのは、前年、第四回のサッカーワールドカップのために建設された20万人が収容できるマラカナンスタジアム。
そのワールドカップでは、決勝でブラジルが敗北し、ショックのあまり、試合後に心臓麻痺で死ぬものや、多くの自殺者が出てしまったという。ブラジルの人々は、その悪夢を払拭すべく、エリオに期待していた。現在でも、サッカーのワールドカップ予選などでは、敵地で戦う際に相手国のファンが作り出す雰囲気によって、実力を出し切るのが難しいと言うが、このときの雰囲気はその比ではなかったのでは無かろうか。
完全アウェイの中、木村は圧倒的な強さでエリオ・グレイシーを下した。寝技に入り、腕で首固めをした際、あまりの力にエリオの耳からは血が流れ出たという。エリオ・グレイシーへのインタビューで、本人もそれを認めている。
全盛期、木村が握力を測ろうとすると、ことごとく握力計が壊れてしまい、計測不能だったという。当時、アルミ製だった電車のつり革のリングを一握りでグニャリと曲げたというのだから、100キロ以上はあっただろう。
エリオは手も足も出ず、最後は腕がらみ(アームロック)が極まる。しかし、エリオは参ったを言わない。仕方なく木村は、エリオの肘を折った。この技は以後、キムラロック、またはキムラと呼ばれることとなる。
エリオは弱かったわけではない。木村との試合の前には、木村と行動を共にした全日本クラスの柔道家を絞め落としている。木村が強すぎたのだ。
力道山戦後の木村の苦しみ、著者増田氏の苦しみ
誰が相手でも勝つことができる柔道を追求した木村。その成果は、エリオ戦でも証明された。しかし、力道山戦での屈辱的な敗北。木村は、プロレスを真剣勝負の場とは考えていなかった。試合前には力道山と打ち合わせも行っており、いつものショーとしてのプロレスであると考えていたが、力道山は本番でそのルールを破った。
勝負の世界に、「たられば」はない。結果が全てだ。木村はそれを誰よりもわかっていたはずだ。どんなときでも油断してはいけないことぐらいわかっていたはずだ。
本書は、柔道経験もある増田氏が実に18年にもおよぶ取材によって描き上げた大作だ。ノンフィクション作品として、取材内容を元に丹念に事実を積み上げていく。
木村の無念を想い、木村の名誉回復のため、あの忌まわしい力道山戦の映像を格闘技界の実力者達に見せ、木村の汚名を晴らそうと必死にもがく姿が文面から感じられる。
しかし、最後には事実と向き合って結論を出す。涙が止まらなかった。二十歳を過ぎてから、泣いた記憶はほとんどない。何十年ぶりのことだろうか。41年間生きてきて、本を読んで涙したのも、これが初めてだ。この文章を書いている最中も感情が込み上げてくる。木村政彦ほどの傑出した人物であっても過ちをおかすこともあるのだ。
運命の試合の後、若くしてヤクザに刺された怪我が元で他界した力道山。苦しみを抱えて、その後も生き続けた木村。残された木村は武道家としては辛い後半生だっただろう。しかし、晩年は子宝にも恵まれ、妻と何度も海外旅行に行ったという。人間として、人生の最後は幸せであったと信じたい。
私にとって一番の映画は、「七人の侍」だ。そして、本書は私にとって一番の書籍となった。それはこれからも変わることは無いだろう。
木村政彦と同じ日本人として生まれたことを誇りに思えた。
本日、4月18日は木村政彦の命日。ご冥福をお祈りします。